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特別寄稿 吉野 求君を偲んで 吉野と初めてあったのは、今から27年も前のことだ。思えば長いつきあいだった。 ・・・昭和48年、明治薬科大学製薬学科に何とか入学。右も左もわからず、これからの キャンパス生活はどのようになっていくだろうかという不安と、将来に対する期待の交錯 する中、私は余暇を楽しむため、テニス同好会の門をたたいた。それまでに経験したスポ ーツは野球、バスケットボール、ゴルフ。本当はまたバスケットボールをやりたかったが サークルがなく、やむなく断念。代わりに当時非常にはつらつとして見えたのが硬式テニ ス同好会だった。 入部のその日に、1日前に入部した山上と知り合った。彼は高校時代はバイク、それから 車と乗り継ぎ、入学早々に車で登校してきた。私も車の免許は取るつもりだったが、いち 早く車を運転する姿がうらやましく、よく乗せてもらった。講義が終わったあと、彼が車 を飛ばしていくのは高校時代の友人たちの家。ある日いつものように山上の車に乗せても らい、着いた先は、浦和のとてつもなくりっぱな門構えの大きな家。部屋に通されると、 やたら図体のでかいその部屋の主がいた。それが吉野との最初の出会い。そのときは友人 たちが4,5人集まっていて、たばこの煙がもうもうと立ちこめていた。あまりいい雰囲 気ではないな、と思いつつ、新しい友人たちとの出会いは非常に興味深かった。吉野はど うやら、親分格みたいな感じで、みんなにお酒やコーヒーをふるまっていた。話をしてい ても太っ腹で、いろいろなことを知っていて、すごいなーと思って話を聞いていたのを思 い出す。だいたい、部屋の大きさがものすごい。彼の生涯の趣味であった、オーディオも すごかった。見たこともない機械や、あこがれのアンプがところ狭しと並んでいた。 お父上は、後に彼が継ぐことになるフェルバ科工という、ビルの外装工事業の会社を営ん でいらした。どうやら業界ではプライスリーダーのようで、彼は学生のくせにそれはそれ はうらやましい生活だった。新しい友人達のいろいろな話を聞いて、その日、自宅に着い たのは夜中の2時頃だったように記憶している。帰りは三軒茶屋に住む、金子氏所有のレ ビンに乗せてもらったが、浦和から柿の木坂まで30分で来たのには驚いた。山上は、見 た目地味だが、すっげー友達ばかりだなーと思ったものだった。 そんなことから吉野達とは山上を介し、たまに遊んだ。とっても面白い人たちで、私も楽 しかった。しかし、大学卒業と共に彼らとは、もちろん吉野とも全く会う機会がなくなっ ていったのだった。 そんな吉野と久しぶりに再会したのは、山上のお父上のお通夜のとき。私の記憶が確かな らば多分昭和60年。私は懐かしさから「吉野さん、覚えてますか。秋山です」と話しか けた。吉野はあの口調で「おぉ、もちろんだよ。何言ってんだよ」。この会話、恐らく一 言一句間違ってないはずだ。そのときに、その年の6月16日行われる予定の、A会の前 身「秋山会」第5回大会に誘ったように思う。彼もそのころ、ゴルフはかなり経験豊富だ ったようで、面白くて仕方ない時期だった様子。喜んで参加してくれた。 そのときの彼のスコアは55、48。見事な大波賞。初参加の割には意外と会を仕切って いた。私もいいゴルフ友達ができたな、と思った。それからはほんとによく一緒にゴルフ をした。当時の晶子夫人もいつしか秋山会に参加するようになり、徐々に充実した会にな っていった、と一応自負している。 秋山会で一泊でゴルフに出かけると、必ず酒の飲みすぎになる。彼の酒のペースは超人的 だ。しかもあの豪快な笑いを聞いていると、深酔いするのもいつしか忘れる。そして次の 日、たいがいは二日酔いでのスタートとなる。 互いのホームコースにもよく行き合った。彼は相変わらずの金回りの良さで、次々と新コ ースを手に入れ、その度連れて行ってもらった。夫婦2組で泊りがけでゴルフしたことも 何回かある。 それから、夜の町にもたまに一緒に繰り出した。昭和から平成になろうとするころはよく 行った。たいていは彼のなじみの店に連れて行ってもらうのだが、いやはやよく銀座を知 っていた。酒を酌み交わしながらする話は、ゴルフはもちろんだが、他によくした話は、 父親のこと、会社のこと。どうも同じ経営者として、共通の話題を持ちたかったようだ。 体つきと、酒の飲みっぷりと笑い方を見てると、豪放磊落に見えるが実は繊細で細やかな 男なのである。だから孤独だったのである。だからよく私に電話をしてきたのだろう。 お父上を失ったときも、とても意気消沈していた。「これから、秋山にいろいろ教えても らわなくちゃ」とも言っていた。でも、さすがに細やかで、頭が切れ、計算高い男。天性 のリーダーシップも手伝い、フェルバ科工はますます発展していったようだ。 そんな彼があんなに仲のよかった晶子夫人と別々に生活するようになる。平成5,6年の ことであったろう。そのころ私は家を新築し、披露も兼ねて秋山会の皆に来てもらった。 そのとき彼らは夫婦で来るには来たのだが、彼は夫人と別々に来た。このころからどうも おかしかったようだ。そして、ついに平成9年、別れてしまった。私はそんな彼が一時許 せなかった。彼はなんとか、私に理解してもらいたかったと思うが、私もだんだん無意識 に避けるようになっていった。晶子夫人がかわいそうに思えたからだ。だから、今の奥様 とお子様を素直に受け入れる気にならなかった。私は非常に神経質にノスタルジックにな っていた。 秋山会改めA会には参加してくれていたが、昔のように打ち解けることはできなかった。 今にして思えば、私は彼を受け止めてやることもできたのではないかと思う。自分自身の 勝手な思い込みで、彼の言い分を聞こうとも、理解しようともしなかった自分が腹立たし い。そんな寂しさが彼を病に追い込んだのかもしれない。 でも、彼は子供ができてほんとにうれしそうだった。一度彼の新居にゴルフの帰りに送っ ていったときに1年生のご令嬢が門まで迎えに出ており、「うちの娘っこ!」と、にこに こしながら紹介してくれた。もっと、あのとき彼女にもっとやさしく挨拶してあげるんだ った。。。おみやげでもあげるんだった。。。器の小さい自分がうらめしい。 彼が悲痛な声で電話をしてきたのは。平成11年10月のある日曜日。「話がある」。 ただならぬ気を感じた私は次の日、大森日赤病院に見舞いがてら訪ねてみた。聞かされた のは、胆管ガン、切ることも投薬治療も効果がなく余命3ヶ月、という事実。ショックだ った。せっかく新しい生活を始めたばかりなのに。あんなにほしがっていた子供がやっと できたのに。 しかし、そんな最悪の精神状態のとき、私をたよってくれた。聞けば高校の友達にはまだ 知らせてないと言う。この事実だけはうれしかった。彼は私に聞いた。いい薬はないか、 いい医師は知らないか、どうしたらいいか。しかし、彼独特の見栄っ張り口調は相変わら ず。「でも、俺はジャガー買うまで死なないよ」・・・精一杯の強がりだったのだろうと 思う。本当は怖くて仕方なく、心細かったに違いない。 しかし、さまざまな方法で絶望のふちから這い上がった人は何人もいる。そんな思いから、 彼にはある健康補助食品を大量に与え、規則的に飲み、何しろ楽しく過ごせ、と言い伝え た。その健康食品で実際にガンから生還した人はたくさんいることを私はよく知っていた のだ。また、ある人が余命1年のガンと宣告され、残りの人生を精一杯楽しもうと、全国 に散らばっていた、友人達を訪ね歩き、本当に楽しく充実した日々を過ごすうちに、ガン がいつの間にか消えていたと言う実話もある。 ただ、彼がガンだということを元々の彼の直接の友人、山上に知らせないわけには行かな い。その事実はその日のうちに、山上に伝えた。そして、山上から高校時代の友人達に回 っていったようだ。 それから彼はしょっちゅう電話をしてきた。「今から病院に行く」「この週末は家に帰る」 ・・・何もできない自分が歯がゆかったが、彼にはその度、勇気付けたつもりだ。そして、 平成11年末に最後の電話がある。「今から年越しでまた入院だ・・でも、また帰ってく るから」 この電話、実は携帯の留守番に入っていたもの。電話に出て生で話を聞いてや りたかった。そして、2000年を迎え、2月5日、気になって初めて彼の新しい奥さん に電話をした。すると、あと1週間と宣告されたという。「だめだったのか・・・」と思 い、その日床につくと、夢に吉野が現れた。今までの元気な彼そのままだった。そして 7日の月曜日1時20分ころ、秋葉原の三井記念病院に見舞いに行った。そのときに、夢 とはまったく違う、苦しそうな彼を目の当たりにすることになる。「かわいそうに・・」 と自然と口をついて出た。意識ももうろうとしているようだったが、私が「早く直って ゴルフやろうよ!」と大声で話しかけると、かすかに反応したようだった。いや、確かに 反応した。やつれた彼の姿に涙が出た。あんなに大きかった彼がこんなに小さくなってし まって・・・。 いたたまれずに私は15分ほどで失礼したが、その直後彼は旅立ったらしい。生きている 彼に会うことができた、最後の友人代表ということになる。 若い頃大腸ガンを煩い、人工肛門になり、昭和61年にはくも膜下をやり、その後腸閉塞 にもなったが、その度不死鳥のように蘇ってきたのに、今回の敵はかなり強大で、あっと いう間に彼は行ってしまった。 楽しい思い出は山ほどある。コンペのあと我が家にみんなで来て笑いあったこと、忘年会 をしたときの悪夢のカラオケ大会。那須の方に一泊ゴルフをしたときにストッキングをか ぶりあって大笑いしたこと。沖縄での大飲んだくれ大会。昼食を挟んだ英語禁止ルール。 ・・・・そう言えば彼は英語禁止ホールではなかなか英語をしゃべらない注意深いやつだ った。ハワイで私にクラブ(スプーン)を買ってきてくれたこともあった。彼の行徳の家 で絶品のカレーをごちそうになったこともあった。近くの焼き肉屋で、焼肉をごちそうに なったこともあった。どうも私がごちそうになった数の方が多かったようだ。ゴルフでの 握りは多分通算では私が勝っていた、と思う。 なにしろ、27年間、怒ったり、言葉を荒げた彼を見たことがない。つくづく体も心も大 きな男だと思う。 彼をどう弔っていいのかわからない。彼のさびしさをまぎらわす友人であれたのかは自信 がない。でも、今日、灰になって行く彼を見送ったとき、私を呼ぶ彼の声が聞こえたよう な気がして、無性に寂しさがこみ上げてきた。 もう彼に会うことはできない。一緒にゴルフをすることもできない。一緒に楽しい酒を飲 むこともできない。歌うこともできない。彼は46才という若さでで行ってしまった。私 ともまだ、27年しか付き合っていない。 よく銀座で飲んだころ、何軒もはしごをした。その入っていく店々で、「俺の親友!」と 紹介してくれた。ほんとに親友と思っていてくれたのか。僭越だが、そうであったと思い たい。しかし、そのことを彼が死んだあとに思い知るなんて、悲しい。 ここ数年、彼は秋山会で優勝をしていない。現在の優勝記念品、チャンピオンティ。当然 彼はまだ獲得していないが、特別に棺の中にそっと入れてやった。今ごろあちらで、その ティを使って、ティショットをしているに違いない。 さようなら、吉野。満足の行く人生ではなかったろうが、太く短く生き抜いた君を忘れる 人はいないと思うよ。まだ俺は行かないが、待っててくれ。そのときまでにいろいろなこ とを勉強しておく。日本人がいつか取るであろう、PGAメジャーの話もしてやる。君の 大好きなジャンボ尾崎のシニアツアーでの活躍も話してやる。君の大事な娘さんの行く末 も見届けてやる。 ああ、この文章をメールにして天国に送りたい。yosihno@heaven.comで届かないものか。 今まで何人かの友人を失っているが、これほど悲しいことは初めてだ。今も涙が止まらな い。吉野、どうか、安らかに眠ってください。 この稚拙な文を謹んで吉野 求君の御霊に捧げる 合掌 秋山泰伸 2000.2.14 |