明薬テニス部思い出の座談会 日時:平成10年11月29日 場所:渋谷ヒルポートホテル 参加者: 宮澤直樹(S.49衛生、OB会長) 山下 修 (S.50製薬) 入沢博之(S.50衛生) 宮澤豊巳(S.54製薬) 柳沢恭仁(S.62薬剤) 斎藤和人(S.62製薬) 阿部修治(H.2薬剤) 西尾香織(H.2薬剤) 奥野雅子(H.2薬剤) 八丈 尚(H.4薬剤) 江口裕三(H.11衛生) 高見直宏(H.11製薬) 辻 直樹(H.10衛生) 稲川正人(H10.衛生) 山本孝一郎(H.10衛生) 山田智久(H.10製薬) 司会者: 秋山泰伸(S.53製薬) 司会 みなさんこんにちは。我が明薬もこの9月に世田谷、田無が統合され、それに伴い、 テニス部、そしてそれぞれのOB会同士も統合しました。そこでこれまでの、それぞれの テニス部の思い出を語っていただきたいと思います。 ではまず、世田谷の方から。創部者の宮澤会長お願いします。 宮澤直 世田谷校のテニス部は昭和45年に設立されました。私は明薬の前に慶応大学に いまして、そこでテニスをやっていました。明薬ではそのころ軟式庭球部しかなかったの ですが、私がいつも硬式のラケットを持っていましたら、それを見た女性4人が興味を持 ちまして、一緒に始めることになり、愛好会としてスタートしました。当時はもちろん コートがありませんから、駒沢公園のテニスコートなどを借りてやっていました。 それから、正式に同好会にするため、顧問には心理学の築島先生になっていただきました。 なんとか部室も確保でき、新学期になり、テニスブームの影響もあってぞくぞくと新入生 が入ってきたわけです。そのころ奥出先生が阪大からもどってこられて、一緒にやるよう になりました。 司会 次に田無校の設立に至る経緯を教えてください。 八丈 今日は設立当初の方がいらっしゃいません。そこで創部をされた早水先輩(S. 53薬剤)から話を聞いてきましたので、簡単にお話します。昭和50年に当時2年生 であった速水先輩をはじめ、12人で同好会としてスタートしました。設立当時から理工 学部連盟に登録し、試合はしてました。その後60年ころ、部として昇格しました。 このころには世田谷の人ともダブルスを組んで試合に参加したこともあったそうです。 柳沢 田無の方は同好会から部に昇格するまで時間がかかりましたが、予算的なこと とか、いろいろな経緯があったようです。 宮澤直 世田谷も最初は愛好会、同好会、部と昇格していったわけです。 司会 では、世田谷のその辺の経緯を副会長の山下さんお願いします。 山下 そろそろくると思ってました。(笑) 私が46年に入部したときには愛好会でした が、47年には同好会に、そして、48年に部にスピード昇格しました。試合の方は48 年春に関東同好会連盟、私大理工リーグに加盟し、積極的に行うようになりました。最初 のころは出ると負けでしたけどね。(笑) 宮澤直 でも、初めて参加した同好会リーグで確か、女子がダブルスかシングルか、いき なり3位になったように記憶してます。昔から女性の方が強かったです。(笑) 司会 まさにその48年に私が入部したわけですが、そのころの練習はきつかったです。 はっきり言って今の比ではないです。そのころは同好会から部に昇格せんとするときで、 このくらいの活動をしていなければ体育会としては認められないんだという、信念のもと に厳しい練習をしていたのです・・・よね?(笑) ですが、当時の部長の山下さんは、 実は自治会とのやり取りの中で、かなり神経をすり減らしていたようです。また、仲良し グループから突然体育会らしくなって、そんな山下体制に疑問を持つ同僚とも確執めいた ものが見え隠れしていましたし、私個人としては、なんて厳しい人なんだろうと当時は 思ってました。通称「鬼の山下」でしたから。でもずいぶん時間が経ってからその当時の 実話を知り、変革期のリーダーは大変だなと、あとになって気づきました。その辺は同期 の入沢さんいかがでしょうか。 入沢 私は遅れて入部したのですが、顔の黒い元気な男がいるな、と思ってました。 (笑) ただ、どこにでも意見の対立はあるでしょうし、そのような葛藤を繰り返して、 進化していくのではないでしょうかね。そういえばそのころ我々の部昇格に反対していた のは、軟庭、卓球部いろいろいありましたが、その人たちと私は後にテニスをやるよう になって、「あのころは悪かった」という話になったことがありました。 山下 そうだね。私も最近同窓会があったんですが、何人かの人が20数年振りにあやま ってたよ。「いやがらせをして悪かった」と。 司会 ではその次の世代くらいということで、宮澤豊巳君いかがでしょうか。 宮沢豊 私が入部したてのころはとにかく部室に入りつらかったですね。何しろ、「鬼の 山下」が奥で座ってるわけですから。(笑) 当時はいやな感じだな、と思ってましたが、 そういった苦労があって今があるのは事実ですし、今はもうその当時の苦労に感銘を受け、 感謝してます。 司会 では次に田無の黎明期のお話を聞かせてください。 柳沢 私も卒業して10年ほどになりますので、記憶も途切れがちですが、覚えているの は1年のときには同じように練習は厳しかったということですね。同好会だったので、 楽しく女のことテニスができるのかな、と思ってました、全然さにあらず。(笑)ローラー 引きなどはつらかったですね。でもそれでなまっていた足腰が鍛えられました。それにし ても、その当時の先輩にはよく怒られました。何度もやめようと思いました。私たちが幹 部になったときも、あれほどは厳しくなかったように思います。ですが、仲間にも恵まれ、 今思い返すといい思い出です。 司会 阿部さんはいかがですか 阿部 私が入ったころは、強制勧誘とか、運動部懇親会略して運懇という、悪しき習慣が ありました。男子は強制的に体育会運動部に所属しなければならなくて、私は生物関係の クラブに入りたかったのですが、武道系はいやだったので、何とかテニスならやっていけ るんじゃないかなと思って入りました。運懇というのは、年2回、体育会全員が集まって、 コンパをするんですが、車座の中に新入生が座らせられて、つぶれるまで飲まされるんで す。学内で運動部の先輩とすれ違うときは必ずあいさつをしなくてはならなかったし、い やでしたね。まぁ、それも世の風潮とともに消えていきましたが・・。 八丈 そう、私のときが強制勧誘は最後でした。 司会 今となっては古き悪しき慣習ですかね。そろそろ女性の声が聞きたいので、西尾 さんいかがですか。 西尾 私は高校のときから少しテニスをやっていましたし、柳沢さんの強い勧誘もあって、 入部しました。「楽しいよー」と言われて入部したのですが、実は・・・。(笑) ですが、私はつらいことはすぐ忘れてしまう方なので、今は楽しい思いでしかないですし、 とてもテニスがうまくなってよかったです。 奥野 私はいつも自由に生きてるので、あまりこういう場は得意でないのですが、久しぶ りに皆さんの話を聞いて、OBなんだな、と実感してます。(笑) ただ、あの現役時代の 緊張感は楽しかったです。 柳沢 奥野さんも最初はかなり苦労してたようですが、かなりテニスも上達して楽しんで ましたよ。卒業してからも一緒にテニスしましたし、私なんかはこの年齢で女性とテニス が楽しめてうれしいです。(笑) 司会 では、また世田谷の方になりますが、斎藤君お願いします、彼は明薬を卒業してか らまた、大学に入ったと言う経歴の持ち主です。 斎藤 ちょっと私は間があくのですが、58年に入部しました。世田谷にコートができて、 2年目でした。私の前の代の高柳先輩のときに「コートができたのだから、がちがちの体 育会としてやる」という方針になったようですが、私はこんなもんだろう、と思ってまし た。それより、空いている時間に私ともう一人同期の田部井君とよくコートを使ってテニ スをやらせてもらいましたので、それが強く印象として残ってます。でも、試合は強かっ たですね。同期に村山と言う女子がいましたが、この村山を中心に、かなりみんなの腕も あがり、次の年には理工リーグで女子が1部昇格しました。 あと、これは言いたいのですが、柳沢さんが私の1つ上の古屋先輩と仲がよくて、その 二人の取り計らいで、つまり、志岐先輩が部長のころ、よく田無と交流試合をしていたん です。 柳沢 あぁ、よくやってましたね。 斎藤 これは何年か続いたんですよね。男子は定期的に対抗戦もやったりしていましたし。 とてもみんなが強くなっていくのがわかったし、特にそういう成長の時期を経験したので、 とても楽しかったです。今でも思うのはやめなくてよかったな、言うことですね。5月合 宿もOBの先輩がたくさんいらしていて、最初大変だなと思ったんですが、多くの交流が できて素敵なクラブだなと思ったことがありました。楽しい思い出です。 今後は両校がいっしょになって、いくわけですが、現役にすべて任せて一途に発展を願っ てます。 司会 統合と言う視点から八丈さんいかがですか。 八丈 その前に私の入ったころの話をさせていただきますが、先ほど阿部さんから話が あった強制勧誘のことを思い出しました、私は中高と卓球部に所属してましたんですが、 先輩たちは新入生の運動経験のデータを写真つきで持ってまして、最初は卓球部の先輩に 声をかけられたんですが、私は華やかなテニスをやりたかったので、そういって断ったん です。すると、次の休み時間に女の先輩が数人でどやどやといらして、「八丈君って子は いる?」と私を探しに来まして、部室に連れて行かれてました。(笑) 部室に行くと、き れいな女性の先輩たちがいて、すぐに入部を決めた次第です。(笑) ただ、練習の様子な どを見ると、かなり厳しいし、入るのはやめようかなとも思ったのですが、強制勧誘で変 な部に入らせられるのもいやだし、心を決めました。その後苦しいことがいろいろありま したが、ひとつ阿部さんに感謝していることがあります。それは運懇のときに私が酒に酔 った空手部の先輩にからまれているときに、「うちの後輩に何をする」といって、助けて くれたんです。空手の型で身構えて。(笑) それは強烈に覚えてます。 その後活動も浮き沈みもありましたが、世田谷と一緒になって楽しい、良いクラブになる んではないかなと印象として思ってます。今日は田無のOBの参加が少ないんですが、今 後積極的に参加を促していきたいとおもってますし、よいOB会を作るために微力ながら お手伝いさせてもらいたいです。 司会 ありがとうございます。次に卒業したての若い人たちどうですか。 江口 一番の印象は入部してすぐの5合宿でした。入試も終わりやっとテニスを思い切り できるぞ、と思って参加したのですが、その白子の合宿で、ひたすら球拾いばかりやらさ れ、また、普段でも同じことの連続で続けるかどうか悩みました。たまたま私たちが2年 生になったときに1年の男子が入ってこなかったんです。それで、2年続けて球拾いにな ってしまって。(笑) でも、今思うと、本当にテニスを続けてきてよかったと思ってま す。 高見 僕は初め、水泳をやりたかったのですが、同好会しかなく、週に1,2回しか活動 しないと言うので、前からやっていたテニス部に入りました。やはり、球拾いばかりでつ らかったです。それと、合宿で練習が終わった後に理不尽に行われる「取ってこい!」こ れには参りました。(一同笑)あと、私が実習のレポート書きでおわれているときに、2 つ上の島田先輩に「何で練習出なかったんだ!」と言われ学校の外周5週走らされたこと こととかありましたが、それでもなんとか続けていこうと思ってやりました。でも2年生 になっても同じことをやらされている自分たちがいて・・・。(笑)私がたちが幹部にな ったとき、いろいろともめて、制度を改革したりして今に至ってるのですが、私も続けて きてよかったと思ってます。 辻 僕は初めテニスをやろうとは思ってませんでした。ここにいる山本君に誘われて入部 しました。僕は実は5月合宿はサボってしまいました。みんなからそのときの様子を話で は聞いたのですが、その後夏合宿のときにびっくりしてしまいました。声は枯れて、足の 皮はむけて、もうやめたいと思いました。でも、同期のみんなで励まし合って、何とか続 けてこられました。3年になって、部員が入らなかったら存続の危機だと言うことで、先 輩達とも話し合って体制を少し変えたわけです。今後もそう言う話し合いをしながらいか なければならないとは思いますが、僕は学校に残ってるので、相談に乗ってあげようと思 ってます。 稲川 僕はみんなとは少し違う理由で入部したんです。私は寮生でして、先ほどの?強制 送還?でしたっけ。 一同 ちがうちがう。強制勧誘だよ。(爆笑) 稲川 ま、とにかく同じような形でほとんど強制的に運動部に入らなくてはならなかった んですが、寮の中にテニス部の先輩がいていろいろお話を聞くうちに雰囲気で入ってしま いました。それで、1年のときは部活もそうですが寮の活動が忙しくって、同期とはあま り話をしてませんでした。考え方も私とは違っているような気がして、寮の先輩とばかり 一緒にいました。でも、あとになって、苦しいこととか分かち合うことができてよかった です(涙声で)。僕らが1年のときは結構たくさん一緒に入部したんですが、やめていく 人間も多くて、なんでつらいことから逃げて行くんだろう、と思いました。それから、 3年になったとき、私たちの方針を決めるとき、なんでOBの先輩が口出しして来るんだ ろうとも思ってました。せっかく1,2年と経験を積んできて、さあ、これからというと きになぜ、僕たちの思う通りにやらせてくれないんだろう、と多少不満もあったんです。 僕はキャプテンをやらせてもらいましたが、同期のみんながいなかったら、何もできなか ったと思うし、みんなには感謝してます。うまくまとまりませんが、以上です。 司会 そうですね。どの期も進級するたびに生じてくる悩みは一緒ですね。特に幹部にな るときには方針決めでそれそれ丁々発止を繰り広げたことと思います。結局私たちの代は 結論も充分固まらないまま幹部に突入してしまった感じでしたね。でも、そのころはOB も少なかったし、うるさい先輩もいなかったし、今とはかなり状況が違うでしょうね。 実はこの座談会ではそう言う意見は聞きたかったこともあるんです。これから新しいテニ ス部がスタートするに当たって、OBは、言うことは言い、引くときは引くということを 徹底していった方がいいかなと思うんです。 山本 ほとんどみんな言ってくれたんですが、結局みんな同じようなことを考えながらき たんだな、と言うのが実感です。というか、合わない人たちがやめていったという感じで しょうか。 司会 最初男は何人いたんですか。 山本 男8人、女8人です。で、結局男6人女3人になったんです。でも、それはそれだ けテニスが好きな人が残ったんだなと思うようにしてたんですが、辞めてもテニスを続け ている人もいて、今思うと、そういう人たちも最後まで続けられるようなクラブならいい な、と思います。 宮澤豊 今の後輩達の話ですが、要は君たちが幹部になるにあたって存続の危機にあるテ ニス部の方針を変えていったわけですが、私たちのときは今と違って、上は絶対でしたか らそういうのは当たり前として受け止めてました。じゃ、これから新しいクラブになるに あたって、何が一番大事なのか、人も集まるのか、満足感も得られるのか、というのを聞 きたいな。 司会 その辺の話を踏まえて、一番若い山田君いかがでしょうか。 山田 僕たちのときも上から言われたことをそのままやっていたという印象なんですが、 幹部になってやったことは、厳しいだけでは人は集まらないだろうということで、何し ろ、率先垂範を心がけました。自分たちでも球拾いをしたりして、無理やり強制というの はなるべくやめて、そうして自主性を促していこうとしたわけです。その結果、楽になっ た分、自分からやらないとテニスが強くならないという雰囲気になってます。ただ、僕た ちが幹部のときの1年の女の子達が結構粒ぞろいだったと思うのですが、もう少し厳しく やってればもっと伸ばしてあげられたかなとは思います。一概には言えませんが・・・。 それと、上に立つ身としては厳しくしていた方がこちらは楽だったかなというのもありま す。うまく言えませんが、自主性というものをうまく育ててあげられれば、楽しく強くな るのかなぁ、と思います。 司会 確かに世の中違ってきましたよね。そう言う意味でこれからのクラブ運営は非常に 難しいなと思いますね。 宮沢豊 ただ、連綿として続いてきた、体育会としての信念みたいなものは受け継いでも らいたいですね。 柳沢 でも、今山田君が言っていた、自主性を重んじるというの延長上に厳しさがある、 というのは身分的に上下があるのが厳しいのか、テニスの技術的に優劣が厳しいのか、 そういうのはやはりアドバイスしてあげることも必要じゃないでしょうか。何をもって 厳しいというのか。・・・。 山下 そうだね。単に厳しくするというのと、強くするうまくするというのをごちゃ混 ぜにしてるケースが多いと思うな。要は身分制度みたいなのを取り払って、礼儀だけき ちんとして練習をびしっとやればいいわけでね。だから私はさっきの「取ってこい!」 みたいなのはやってないですよ。 司会 そう。そう言う理不尽な厳しさはなかったですよ、 山下 それは明薬に入って、すごく古い保守的な体質だなというのを感じたので、私は 民主的合理的に実力主義でやり、古い体質を取り払おうとしたわけです。私も厳しい厳 しいと言われたんだけど、なんか今とは違うような気がします。私は最初リベラルにと 思って作り上げていったつもりなんだよね。もう私が引退して20数年。ときどき個性 の強いリーダーもいたし、形を変えて行くのは仕方ないことだろうな。 司会 ただ、これからのやり方として、自分でやってみせるというのは重要かもしれま せんね。そう言う意味では言い改革をしたとも言える。 斉藤 でも、基本的な流れは変わってないですよ。山下さんのおっしゃったことは僕た ちも感じてたし、山田君たちも感じてる、よね?(笑) 司会 そろそろ、時間も近づいたので、最後にOB会長に締めていただきたいと思いま す。 宮澤 押しつけはいけなんだけれど、体育会でありながら昔の同好会的な雰囲気は残し て、リベラルにやってもらえればいいと思います。そして、硬式テニスと言うスポーツ は社会に出てからもずっと楽しくできるので、大勢新入部員が入ることを祈ってます。 司会 ありがとうございました。これで座談会を終了します。